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村松藩主も喜ぶ舞い、二度の復活を経て今の時代へ/蒲原神楽<歴史編>

蒲原神楽(かんばらかぐら)は約240年前の天明二(1782)年頃から、長い年月の消長を経て、五泉市の下大蒲原で継承された里神楽であり、市指定の無形民俗文化財です。地域おこし協力隊のきゅうは五泉市に移住して、蒲原神楽が気になり、取材に行ってまいりました!

2024年1月14日、下大蒲原地域の神明神社にて、「蒲原神楽かんばらかぐら」が奉納されました。その様子を紹介した<奉納編>はこちらからご覧いただけます。こちらの<歴史編>では、蒲原神楽の歴史を皆さんと一緒に遡ります。


悪疫退散のため、
旅芸人が動いた!

蒲原神楽の起源は約240年前の天明二年(1782)頃でした。悪疫が流行した当時の蒲原部落に西蒲原の旅芸人(神楽師の説も)の源左衛門がやってきて、鹿右衛門の家に泊まりました。鹿右衛門より悪疫の状況を聞いて、源左衛門は寝食も忘れて獅子頭と天狗のお面を彫り上げ、そのお面をもって神明宮で悪疫退散・家内安全を祈って、神楽を舞ったところ、悪疫がたちまち退散したといいます。その後、源左衛門より教えを受けた村人たちが、村の祭事や難事にはこの神楽を舞うようになり、伝承されてきました。鹿右衛門の家でお面を彫ったことから、「鹿右衛門神楽」とも呼ばれていました。

蒲原神楽に使われる獅子頭、お面や楽器など
『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)より

熱演に藩主様が大喜び!
家紋の使用許可書を受託

蒲原神楽の逸話にこんなものがあります。
五泉市村松地域にあった村松藩の第九代目藩主堀直央ほり なおひさ(在位1819~1857)の時に、神楽の若者たちが城に招かれ、藩主の前で演じたことがありました。あまりの熱演で天狗のふんどしがほどけたのも忘れて神楽を舞ったところ、藩主は落ち度をとがめず大変歓喜し、自分の羽織を脱いで「返すに及ばず」と与え、窮地を救いました。さらに堀家の家紋「釘貫紋くぎぬきもん」入りのアオ三反(布生地三反)をたまわったといいます。その「三反」というのは、神楽太鼓の音が「さんだん、さんだん」と威勢よく聞こえたことに由来するといわれています。その後、大正期に堀家末裔の奥田直元なおもとより正式に家紋の使用許可書を受託し、蒲原神楽の名が県下に広まったことで、各地のお招きに応じて、活躍するようになりました。

大正15年、堀家末裔の奥田直元より家紋使用許可書を受託しました。
p.2『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)より

大正と昭和、二度の復活!
「地域の伝統をもっと大切にしよう」

村松地域だけでみても、蒲原神楽の他にも多くの里神楽が存在していました。保存会なども結成されましたが、残念ながらそのほとんどが廃絶してしまったのが現状です。その中でも継承され続けている蒲原神楽はとても貴重な存在です。

蒲原神楽保存会「松久会しょうきゅうかい」は大正15(1926)年に神楽の使命を説いた弘宜栄三さんに促されたことにより結成されました。結成当時、蒲原神楽は衰退期にありましたが、松久会の結成の後、大正期から昭和中期にかけて隆盛を極めました。その後、昭和40年代の経済の変動により蒲原神楽は再度衰退期を迎えましたが、昭和53(1978)年に先代会員の岡田十三四さん、岩野三四一さんたちの指導のもと、鈴木幸男会長を中心とした松久会のメンバーが猛練習を重ね、復活公演をやり遂げました。現在の岩野和範会長もその際の演者の一人でした。

復活公演前日となる昭和53(1978)年4月1日の新潟日報では「蒲原神楽 20年ぶり あす披露」「若さで伝統見直し 太鼓・笛、一日おき猛特訓」の見出しを付け、次のように紹介していました。

 中蒲村松町下大蒲原部落で、およそ二十年ぶりに「蒲原神楽」が復活する。若い人が中心となって一月から特訓を続け、あす二日、同部落の法幢寺ほうどうじで披露される。ここでも、自分の住む地域に伝わる伝統見直しの機運が高まっている。

 同部落では以前、正月に冬の娯楽として、神楽舞いが盛んに行われた。しかし、昭和三十年代に入って、農業の兼業化が出始めるに従い、生活もせわしくなり、神楽をやる人が少なくなり、三十三年ころを最後に途絶えてしまった。ただ四十四年に一回、県の文化財申請のために舞っただけで、実質的には二十年ぶりの復活。

(中略)

 復活のきっかけは、ことし一月、大蒲原農協の青年部結成の話が出たさい、年配の人と若い人たちで昔話で花が咲き、神楽の話が出た。その時、若い人から「自分の住んでいる地域の伝統をもっと大切にしよう」と、トントン拍子に復活の話が進んだ。神楽舞いを保存している松久会(鈴木幸男会長)らが中心となり、二十一歳から四十歳までの兼業農家、役場職員らが勤めを終えたあと、下大蒲原公民館に集まって猛練習。二月は週二回、三月に入って一日おきの特訓。

昭和53(1978)年4月1日『新潟日報』
復活公演前日となる昭和53(1978)年4月1日の新潟日報
p.17『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)より

復活公演をやり遂げて以来、縁起が良いということで、結婚式や竣工式などで呼ばれるようになり、昭和57(1982)年新潟駅の新幹線開通祝いなどにも出演しました。

昭和22~23年(1947~1948年)頃の蒲原神楽
p.6『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)より
昭和53年の二度目の復活後、平成9(1997)年の蒲原神楽
p.6『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)より

「世に出せる」の思いで
指定民俗文化財(民芸)第1号

蒲原神楽は平成2(1990)年、当時の村松町より民俗文化財(民芸)の第1号となる指定を受けました。この時のことを先代の鈴木幸男会長は『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』で次のように振り返っています。

(13名により昭和53年の復活公演を経て)
 この時に”蒲原神楽”は生きかえった。世に出せるぞ。と思う気持ちと、この人数でいつまで続けていけるかという思いが交差しました。しかし、幸いにもこの頃に農協芸能祭、新幹線開通等数多く出演する機会がありました。また、途中で数人の会員の出入りはありましたが、若い人も加わり発足当時の心配はいつの間にかなくなっていきました。

 会員の皆も一生懸命にやって来ましたので、念願であった伊勢神宮参拝と、神楽の奉納を十年の節目として実現する事が出来ました。この経験が自信となり、誇りを持って活動出来るようになったと思います。

 十年も続けてこれたから、もう大丈夫と感じ、平成元年に町の文化財指定を申し込み、平成二年一月に町民俗文化財第一号という指定を受け、復活当時に夢見た「世に出せる」事が出来ました。

p.21『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)
(当時)松久会会長 鈴木幸男「蒲原神楽を振り返って」

鈴木会長の「世に出せるぞ。と思う気持ちと、この人数でいつまで続けていけるかという思いが交差しました。」という言葉からは、継続と継承に関する葛藤や不安が感じられます。平成18(2006)年の五泉市・村松町合併後も、無形民俗文化財としての指定は続いており、新年の初舞いは現在に至るまで行われています。

民俗文化財に指定された時の指定書
p.16『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)より
平成2年2月20日、町文化財指定記念公演(下大蒲原・法幢寺にて)
p.15&p.18『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)より

新年が明けると初舞い
日本全国で一番早い神楽

時代が変わり、今年は元旦ではなく、1月の別日に奉納されましたが、昭和期の復活後、近年までは新年が明けて1月1日の0時0分に奉納されていました。旧・村松町の平成12(2000)年2月号の『広報村松』では、当時の賑わっていた様子が書かれていました。

 蒲原神楽保存会の松久会のみなさんは、毎年、除夜の鐘が鳴り終わると同時に地元の鎮守神明宮に神楽舞いを奉納して新年を祝い、その年の安全を祈願しています。新年が明けると同時に行われるこの舞い、日本全国で一番早く舞われる神楽ということになります。もちろんミレニアム二千年の新年も一番乗りでした。会員のみなさんは歳夜のご馳走もほどほどに酒も断って新年の舞に備えます。境内にはかがり火が焚かれ甘酒やおでん、スルメなどが振る舞われ、地元はもとより近在からも参拝者が訪れ賑わいます。

P.16『広報 村松』第322号[平成12(2000)年2月号]
スポット ひと・ばしょ・もの「蒲原神楽初舞(下大蒲原)」
P.16『広報 村松』第322号[平成12(2000)年2月号](p.2320, 縮刷版第三卷)
スポット ひと・ばしょ・もの「蒲原神楽初舞(下大蒲原)」

ラポルテ五泉の新春まつりに蒲原神楽

令和2(2020)年以降、新型コロナウイルスの影響でなかなか公演を行うことができませんでしたが、令和6(2024)年はラポルテ五泉の新春まつりにトップバッターで登場しました。短めの10分間の公演でしたが、人々を惹きつける舞でした。

2024年1月8日、ラポルテ五泉に初登場した蒲原神楽

松久会は現在会員15名、その多くは昭和53年の二度目の復活後から活動してきた会員ですが、新たに若者の会員も招き入れるなど、後世に継承する努力を続けています。

最後に

きゅうが2023年7月に五泉市地域おこし協力隊に着任した時から、市内の民俗芸能の「蒲原神楽」に興味を持っていました。当初は、果たして地域コミュニティの中の神楽を取材することができるのかと心配していましたが、松久会の皆さんは、取材を快諾してくれました。前準備として資料を調べると、幾多の曲折を経て、現在に伝わっていることが分かり、1月14日当日の神楽舞を感謝の気持ちで見ることができました。(※神楽の日程は年によって変わる場合があります。)

なにより取材させて頂いた岩野会長をはじめ、蒲原神楽保存会「松久会」の皆さんに感謝いたします。神楽の練習でお忙しい中、資料までご準備くださり、ありがとうございました。

蒲原神楽のいきいきとしたかわいい獅子舞、熟練の歌とお囃子、とても魅力のある神楽です。これからも継承して欲しいと願うばかりで、こちらの記事で少しでも多くの人に蒲原神楽の魅力を分かっていただければ幸いです。

<奉納編>も是非ご覧ください!↓↓

【参考資料】

『村松町史 下巻』(昭和57[1982]年3月発行)
『蒲原神楽 復活二十周年記念誌』(平成9 [1997] 年3月発行)
『郷土再発見!ふるさとの誇り100話』(平成17 [2005] 年3月発行)
『広報 村松 縮刷版第1~3巻』(平成17 [2005] 年12月発行)

(文:地域おこし協力隊 見たい聞きたい知らせ隊 邱子菁)

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