【銕團公】村松に住んだことのない村松藩祖堀直竒
ごめんください、地域おこし協力隊の邱です。
2024年6月27日(木)、五泉市内の英林寺で銕團公の第386回忌が行われました。英林寺境内の径4尺(約1.2メートル)の丸石の墓碑の前で、篠笛のパフォーマンスとお経が捧げられたのち、50名近くの参列者が次から次へと焼香を行いました。
法要の後は木村宗文さん(こすど史楽会会長/元長岡高校校長)による「もっと知りたい 村松の歴史」と題した講演会が行われました。
あれ?そもそも、銕團公とはどなたでしょうか?
なんで、五泉市にお墓があるのでしょうか?
銕團公とは誰?
”銕團公”とは、安土桃山時代-江戸時代前期に生きた武将であり大名の、堀直竒(ほりなおより、1577-1639)のことです。江戸時代の長岡城とその城下町の建設、新潟町や湊の整備を手がけ、後に村上藩10万石の領主となった人物です。”銕團公”は戒名の「凌雲院殿鐡團宗釘大居士」から取りました。
現在の新潟県長岡市、新潟市と村上市の発展の基礎に多大な貢献がある人物ですが、かつての村松藩である五泉市村松地区に住んでいたという記録はありません。では、なぜ村松には堀直竒のお墓があるのでしょう?
堀直竒と村松藩の関係性
実は、堀直竒と村松藩初代藩主堀直時は親子関係にあり、直時が直竒の次男にあたります。村松藩について、次のように五泉市公式HPの説明を引用します。
無嗣断絶で廃藩、時を経て、五泉市村松へ
晩年の堀直竒は、長男の堀直次が死去した後、村上藩主を孫の直定に継承しましたが、残念なことに直次に続き直定までもが相次いで亡くなったため、村上藩は無嗣断絶(跡継ぎがいなくなること)となり、廃藩となりました。(村上藩はその後本多忠義により再度立藩しました。)
廃藩に伴い、堀氏の菩提寺(先祖代々の墓や位牌をおき、菩提を弔う寺。)である英林寺も村上藩から村松藩へ移転しました。それでも堀直竒のお墓は最初、東京上野の寛永寺にありました。国立西洋美術館の建設のため、寛永寺所有地が買収され、お墓は渋谷の長泉寺に移りました。その後、平成14年(2002)に堀家累代のお墓と共に、村松藩にとっての藩祖堀直竒が五泉市村松の英林寺に改葬されました。
このような時代の流れを経て、村松藩主の祖でありながら村松に住んだことのない堀直竒のお墓は村松にやってくることとなったのです。
※堀直竒のお墓には諸説あり、和歌山県高野山と村上市にも直竒のお墓とされているものがあります。
歴史講演会「もっと知りたい 村松の歴史」
法要が終わった後、英林寺の本堂で歴史講演会が行われました。毎年異なる講師を招いており、今年は町史や市史の発行にも関わった木村宗文さんが「もっと知りたい 村松の歴史」について講演されました。主に戊辰戦争の終盤の時期における村松藩のことについて、様々な本の内容を紹介しながらお話されました。私は五泉市に移住してきて1年目で歴史には詳しくありませんが、大変面白くて勉強になる講演でした。
【村松お城の会】地域の歴史伝承活動を続ける
英林寺主催の銕團公忌との共催で関わっているのが「村松お城の会」です。
もともとは商工会商業部会、青年部において観光資源開発について議論する中で、平成11年(1999)に結成された団体です。後に、村松建築士会や郷土研究会も加わりました。(現在は合わせて「村松お城の会」になりました。)
瀧澤修会長にお話を伺うと、村松お城の会では、地域の歴史伝承や町おこしとして、「村松歴史講座」や「ブラ村松街歩き」など、地域住民に歴史への理解を深めていただけるような催しを行ってきました。新型コロナウイルスの影響で街歩きイベントはお休みしていましたが、再開も検討しているそうです。銕團公忌の開催に併せ、歴史に詳しい方に講演をしていただくのも、またその一環です。
直近では依頼を受けて、村松高等学校の1学年の「城下町探索」に協力し、案内と説明をされました。その様子は村松高等学校のnoteに書かれていました。
イベントのほかに、より分かりやすく村松を知ってもらうための歴史資料や武家屋敷の調査フィールドワークをまとめた刊行物が作られました。私も個人的に購入した、2022年発行の『城下町村松 ブラリ街歩き』を片手に、村松地域をブラリ歩こうと思います。